旧伊藤邸保存育成会

柳原白蓮像

柳原 白蓮(本名 Y子)とは・・・

大正10年10月、大阪朝日新聞に、妻から夫へ突きつけた絶縁状が公開されるやいなや、世情を騒がす一大スキャンダルとなった。妻は、華族の出身で 歌人として名高い柳原白蓮。夫は、九州一の炭坑王・伊藤伝右衛門。白蓮は、夫と裕福な生活のすべてを捨てて、7歳年下の帝大生・宮崎龍介の許へと走った。 これが、日本近代史に残る世紀の恋愛事件、世に言う「白蓮事件」である。

白蓮が伝右衛門と結婚したのは、明治44年。当時、白蓮27歳、伝右衛門は父親ほども違う52歳。白蓮は妾腹とはいえ大正天皇の従兄弟にあたる高貴な家柄で、炭坑夫から一代で財をなした伝右衛門とは不釣り合いなことから、「金で買われた結婚」と世間では噂した。

「金襴鍛子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう」という歌や、菊池寛の「真珠夫人」という小説は白蓮がモデルといわれている。

白蓮自身は、世間で言われるような「悲劇の花嫁」というわけではない。自分なりの夢を抱いて伊藤家に嫁ぎ、伝右衛門も若い妻をいたわり可愛がった。 短歌に打ち込む妻のために大金をかけ豪華な歌集を出版してもやった。この処女作「踏絵」以降、次々と作品を発表、中央歌壇にも認められた白蓮は、やがて 「筑紫の女王」と呼ばれるようになる。

しかし、いくら贅沢な生活を送り、名流夫人としてもてはやされても、妻妾同居する家で無学な夫との生活は、いつしか心満たされぬようになる。そんな白蓮の前に現れたのが、宮崎龍介であった。

姦通罪があった時代、入獄も覚悟した、まさに命がけの恋だった。非難轟々と渦巻く中、二人は愛を貫き通し、伝右衛門の男らしい態度もあって、やがて離婚が成立。白蓮が81歳で亡くなるまで、貧しいながらも幸せな結婚生活を送ったという。

柳原 白蓮